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NAGATANI Soen​
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永谷宗円(ながたにそうえん、延宝9年2月8日(1681年3月27日) - 安永7年5月17日(1778年6月11日)) 

NAGATANI Soen (March 27, 1681 – June 11, 1778)

​永谷宗円とは・・・

宗円とは

 京都府綴喜郡宇治田原町湯屋谷の永谷宗円は、1738年に「青製煎茶製法(宇治製)」を完成させ、それを世に広めました。

Nagatani Soen was in Yuyadani, Ujitawara town, in the southern part of Kyoto Prefecture. He invented and promoted 'Aosei Sencha Seiho' ('Blue Method' to produce Sencha, or unfermented green tea) in 1738, and spread it to Japan.

人物像

人物像

His Charactor

 宗円というのは、晩年に仏門に入ったのちの名前で、元々の名は宗七郎です。家系図には、「始め行弘と名乗り、のちに義弘と改めた」とありますが、世間に広まり、社会が認識していたのは「宗七郎」という名でした。

'Soen' is the name after becoming a monk. His original name is Soshiro. "He called himself Yukihiro at the beginning, and later changed to Yoshihiro." it is written in the family tree. However, the name "Soshichiro" was widely recognized by society.

 永谷家は、いわゆる村の名家であり、祖先の家弘が湯屋谷に転居して以来、茶園を開き、製茶業に従事し、代々その茶業を継いで明治年間にまで及んでいました。

The Nagatanis are the famous family in the village, and since their ancestor Iehiro moved to Yuyadani, he opened a tea garden, engaged in the tea industry, and inherited the occupation from generation to generation until the Meiji era.

 宗円は、新しく開発した煎茶の製法を、家人が止めるのもきかず、希望する人々に公開して、自分だけのものにすることはありませんでした。永谷家の古い記録には、次のような逸話が記載されています。

 『宗円は、近隣に製茶法を教え、近くの村々までも伝授された。家族が言うには、製茶の時には人手を集めるのに差し支えるから、あまり手広く教えなさるなと申したところ、宗七郎は、似たものは自然と集まるものであるから、国中に広まってしまえば、外国から伝え聞いた者たちが来る。人手に少しも不自由はないから心配する必要はない、と言われた』

 その心の大変に広いこと、無我の性格はこの伝えられている簡単なひとつの話から十二分に想像することができます。

Soen has opened the newly developed sencha manufacturing method to those who wish, he didn't make it his own. His family stopped it, but he didn't listen. The Nagatani family's old documents contain the following anecdotes:

"Soen taught the tea-making method in the neighborhood and even taught it to nearby villages. His family say: that they tell him 'don't teach too broadly, because it becomes difficult to gather manpower when making tea.' Soen says 'Similar things naturally gather together, so if they spread all over the country, people from abroad will come.  You don't have to worry because it's okay to gather workers.'" The very broadness of his mind, his selfless personality, can be fully imagined from this simple story.

 宗円の亡くなった年齢は、いろいろに伝わっていますが、様々な文献などから検証すると、実に98歳の高齢であったと考えられます。また、その墓所は、一般の共同墓地とは全く別の場所で、自宅近くの山腹に独立して存在しており、子孫が亡き後に相当に敬慕の情を捧げたことを物語っています。

The age at which Soen died is known in various ways, but it is believed that he was 98 years old when examined from various sources. In addition, the graveyard is completely different from the general communal cemetery, and exists independently on the hillside near his home, which shows that his offspring gave considerable respect after his death.

製茶法

宗円の製茶法

Soen's Producing Sencha Method

 宗円が創始したという青製煎茶製法については、茶を蒸すことが特色のように言われることもありますが、茶を蒸すことは、宗円よりずっと以前より行われてきました。それでは、宗円の製茶法の特色は何かといえば、①新芽の良芽を撰んで採り、②湯で蒸し、③揉みながら、④焙炉で乾燥するという、4つの条件をすべて備えていることといえます。そしてその水色は、「青製」の名に表されるように、美しく澄んだ薄緑色を主とするものです。

It is said that Soen completed 'Aosei Sencha Seiho' ('Blue Method' to produce Sencha, or unfermented green tea).  This method is sometimes said to be characterized by steaming tea leaves, but it has been practiced long before Soen. Then, what are the characteristics of Soen's tea-making method? It has all four conditions: (1) picking good puoligy new leaves, (2) steaming them, (3) rolling them, and (4) drying them on the 'Hoiro' roaster. And the color of the cup of tea is mainly beautiful and clear light green, as the name "Blu Method" shows.

実際の手もみの様子

the actual condition of hand rolling

焙炉

焙炉(ほいろ)とは

What Is 'HOIRO'

 宗円の製茶法の、最も大きな特徴は、焙炉と言われる台の上で、下からゆっくりと茶葉を温め、揉みながら乾かすところにあります。

The most important feature of Soen's method is that the tea leaves are slowly warmed from below on a table called 'Hoiro' and dried while rolling.

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 焙炉というのは、格子の上に柿渋を塗った和紙を張った台のことで、下から加熱できるようになっています。

'Hoiro' is a kind of table. The top board is made of Japanese paper coated with persimmon tannin put on a lattice. It can be warmed from below.

Success In The Capital

江戸での成功

江戸での

 宗円は、新しい製茶法で作ったお茶を、当時文化の中心地であった江戸に売り込みに行きました。様々な茶商にそのお茶を売り込みましたが、日本橋の茶商、山本嘉兵衛が一目でそのお茶の品質がとても良いことを見抜き、必ず好評を得るだろうと考えて、率先して宗円の茶を販売しました。そして、その予想通り非常に世間の称賛を得て、大きな利益を得ました。山本家の古い記録には、『品質がとても良く、その味の良いことはまるで甘露のようである』『江戸の町々のいたるところ、この茶を好んで飲まないものがないほどになった』とあり、そのお茶がいかに品質が良く、いかに評判であったかを窺い知ることができます。

Soen went to sell tea made by a new method to the city of Edo which was the center of culture at that time. He promoted to various tea dealers his own tea. Yamamoto Kahei, a tea dealer in Nihonbashi, saw at a glance that the quality was very good. He thought that it would earn a good reputation, so he took the initiative in selling Soen's tea. His expectation was right, and it was highly praised and profitable. His expectation was right, it got a lot of public praise, and he made a big profit. An old document of the Yamamoto family said, "The quality is very good and the taste is like sweet dew." Everywhere in the city, it was as if everyone liked to drink it."  From this, we can see how good the quality of the tea was and how popular it was.

Interacting With Baisao

売茶翁との交流

売茶翁

 売茶翁高遊外は、煎茶趣味普及の第一人者で、後世、煎茶道の開祖と仰がれている黄檗禅の高僧で、柴山元昭師のことです。売茶翁は、1742年(寛保2)の夏に、湯屋谷村の宗円を訪ね、一泊して茶事について大いに語り合ったと言われています。

 宗円は、自園の新茶を淹れてもてなし、売茶翁はその味、色、香りに大変感動し、言葉では言い表せないほどの賛辞で宗円をほめたたえたことが、彼の残した文章として、古い記録に残されています。

Baisao, Ko Yugai is a leading person in the spread of 'sencha shumi'. 'Sencha shumi' is to talk philosophically while drinking Sencha regardless of the form. He is a high-ranking priest of Obaku Zen who is said to be the founder of Sencha-do in posterity. His real name was Shibayama Gensho. It is said that Baisao visited Soen in Yuyadani village  in the summer of 1742 and stayed overnight to talk a lot about the tea.

Soen brewed newly-piched tea from his own garden.  Baisao was very impressed with the taste, color and aroma, and praised Soen with indescribable compliments. This is recorded in an old document as the sentences left by Baisao.

Soen And Yoshikawa Kaido

宗円と好川海堂

好川海堂

 永谷宗円の功績については、大正時代の中頃、宇治田原町妙楽寺の住職であった好川海堂が、『日本喫茶史要』という著作に「日本煎茶創始者永谷翁」の項を書いたことにより、初めて公になりました。

In the middle of the Taisho era, Yoshikawa Kaido, who was the chief priest of Myoraku-ji Temple in Ujitawara Town, wrote the section "the revered old Mr. Nagatani, the father of Japanese green tea Sencha" in his book "History of Japanese Tea Drinking". As a result, the achievements of Nagatani Soen became public for the first time.

 当ページも、彼の著作より抜粋し、構成してあります。以下は、その著作の全文です。

This page is based on his writting. The following is the full text of the work.

著作

好川海堂 著

以下の文章は、好川海堂著「日本喫茶史要」の中で、永谷宗円について書かれている「日本煎茶創始者永谷翁」を、国立国会図書館のデジタルコレクションにある原文をもとに、現代文に訳したものです。記載されてある内容は、執筆された当時の調査等によるものであり、現在の調査研究によるものとは異なる場合がありますので、ご了承ください。

The following text is a translation of "Founder of Japanese Sencha THE REVERED OLD MR. NAGATANI," which is written about Nagatani Soen in "History of Japanese Tea" by Yoshikawa Kaido. Please note that the contents described are based on the research at the time of writing and may differ from the current research. The English translation is listed next to Japanese.

1出生の土地

第1

 日本最大の湖である、近江国(おうみのくに)(現在の滋賀県)の琵琶湖の湖水が、平安時代に空前の女流作家であった紫式部がこもって、素晴らしい著作である「源氏物語」を書き始めたと伝えられる、観音の霊場でもあり、月が美しいと名高い石山寺の麓から抜け出て、鹿飛(ししとび)、米浙(こめかし)などという難所で、奇石や切り立った崖とぶつかり、激しく打ちつける波が、まるで白雪が粉々になるように飛び狂いながら、山また山を通りぬけて、これ以上ないというところで一転し、広々とした平野に流れ出ようとするあたり、朝日山と呼ばれる土佐絵のような緑の小山を右に、藤原時代の建築の代表的傑作と賛美されている、色鮮やかな鳳凰堂を左に見て、水量豊かな水は、川幅いっぱいにずんずんと流れている、宇治川である。両岸に並ぶ人家は、宇治の町(京都府下久世郡)である。

 山城(やましろ)は、古来より茶で全国に知られる所であり、その全国に鳴り響く山城茶の産地は琵琶湖の湖水を水源としている宇治川が、その中心をなしている。この宇治川の上流に向って右岸に宇治田原郷(京都府綴喜郡宇治田原町)を経て、近江国(おうみのくに)に通じる1本の道路がある。古くから開けた道で、大和に都があった時代より、交通上、戦略上、極めて重要な道路であったことは、歴史学者が事あるごとに言及しているところである。この道路を宇治町(京都府宇治市)からさかのぼること、2里(約8キロメートル)強で、煎茶の産地として有名な宇治田原郷の入口である郷之口村(京都府綴喜郡宇治田原町)に達する。さらにその東南おおよそ1里(4キロメートル)の所に、幾重にも重なる山々の谷あいに点在する百数十戸の村落がある。湯屋谷(ゆやだに)と呼ばれて、京都府綴喜(つづき)郡宇治田原(うじたわら)村(京都府綴喜郡宇治田原町)に属しているこの湯屋谷こそ、これから述べる、日本茶業界の一大恩人である永谷宗七郎(ながたにそうしちろう)翁が、この大正11年を去ること242年前に、まさに産声をあげた土地である。

 人の価値は言うまでもなく、その人の人格や行いにあり、その家系家柄などがどうであるかは、その価値に何の増減を加えるものではないが、また反面より言えば、その人となりを知る材料となる。今、翁の家系家柄などがどうであるかを見ると、後世、多少の修飾や誇張がないこともないようであるが、とにかく、ここに必要である部分のみを翁の末裔である分家にのこる家系図よりかいつまんで記す。

永谷肥後守、山代国ノ侍也、文禄元年八月、居ヲ湯屋谷村塩谷湯谷坊ノ旧地ニ構ヘ、辞任幽居茲湯山社ヲ敬ス、九月廿五日祭リ、

慶長元丙申年五月十二日逝去 信誉西蓮禅門、妻、智光禅尼

家弘ノ子、通弘、太閤ニ仕ヘ近臣トナリ、七百石ヲ玉フ、浪華城在番役也、

(永谷肥後守、山代国(やましろのくに)の侍である。文禄元年(1592)8月、湯屋谷村塩谷湯谷坊の跡地に居を構え、職務を辞任し世を避けて引きこもって暮らし、ここで湯山社を敬い、9月25日に祭る。慶長元年5月12日(西暦1596年6月7日)逝去。戒名は信誉西蓮禅門、妻は智光禅尼。家弘の子、通弘、太閤(豊臣秀吉)に仕え近臣となり、700石を賜る、大坂城の在番役である)

寛永元申子年八月廿四日卒

欽誉頓覚大禅門、妻、妙誉善室

(寛永元年8月24日(西暦1624年10月6日)逝去。戒名は、道林禅門、妻は妙智禅尼)

慶安二己丑年三月十日卒

道林禅門、妻、妙智禅尼

(慶安2年3月10日(西暦1649年4月21日)逝去。戒名は道林禅門、妻は妙智禅尼)

寛文十一年辛亥正月廿三日卒去

梅誉露顔、秋誉妙雲

(寛文11年1月23日(西暦1671年3月4日)逝去。戒名は梅誉露顔、秋誉妙雲)

与三右衛門、従元禄元年神事帯刀免許、自奉行所宿則証文被下

元禄十一年戌寅十一月十日亡、松誉良貞禅門、妻、植田氏女、同十六年四月十一日、夏月浄薫禅尼

(与三右衛門、元禄元年(1688)に神事、帯刀を許される。元禄11年11月10日(西暦1698年12月11日)逝去。戒名は松誉良貞禅門。妻は植田氏の娘で、元禄16年4月11日(西暦1703年5月26日)逝去。戒名は夏月浄薫禅尼)

与三右衛門、後改名重郎兵衛、神事出席、帯刀御免、享保十九年申寅八月九日卒去、了誉松貞禅門、延享四丁卯。八月九日、妻、寒誉妙貞禅尼

(与三右衛門、のちに重郎兵衛に改名、神事出席、帯刀を許される。享保19年8月9日(西暦1734年9月6日)逝去。戒名は了誉松貞禅門。妻は、延享4年8月9日(西暦1747年9月13日)逝去。戒名は寒誉妙貞禅尼)

宗七郎、神事出席、苗字帯刀免許、後改義弘、入道宗円

梨蒸上煎茶元祖也

妻、氏田氏女、安永七年戊戌七月三日

此ノ他ニ、湿田ノ改良事業及上煎茶創始ノ由来ナドヲ記載シテアルモ、茲ニ要ナキヲ以テ略ス。

(宗七郎。神事出席、苗字、帯刀を許される。のちに義弘と改める。出家し、宗円と名乗る。梨蒸上煎茶元祖である。妻は、氏田氏の娘。安永7年7月3日(西暦1778年7月26日)

(この他に、湿田の改良事業および上煎茶創始の由来などを記載してあるがここでは必要ないため省略する)

義弘 永谷三之丞三男本家相続……現今ノ三之丞氏ハ六世ノ孫

義兼…永谷長左衛門

女子

光弘…永谷武右衛門

家系図

 翁の家は、この家系図が示す通り、いわゆる村の名家であった。翁がいつもなじみ深く寝起きしていた家屋が巻頭の写真のように現存しているが、(この家はその後長く修理を加えていなかったため大変荒廃し、大正11年早春に取り壊されたが、その時、文化7年(1810)に小修繕をしたことが分かった)、その位置といい、大きさといい、昔の家屋として、また、奥深い山中の村落の家屋として、実際この家が名家であったことを容易に推定することができる。こうして、翁の祖先家弘は、湯屋谷村に転居して以来、茶園を開き、製茶業に従事し、代々その業をついで茶業に努力して、明治年間にまで及んでいたのである。

 翁の家屋の前庭に古来より、大変大きな茶樹があった。幹の周囲1メートル、高さ4メートル、梢の周り9メートルあまりあるため、樹園と呼んで、その評判は広く伝わり、わざわざ足を運ぶ人も少なくなかったということである。明治5年の冬にとうとう枯死し、その根元の方の太い部分は、ある人の手に渡り一枚板の懸額(かけがく)となって、好事家の垂涎の種となっているということである。その末の方である枝つきの幹は、現在も翁の子孫である永谷家に存在していて、末幹とはいいながら稀に見る大木で、その根元の方の幹を周囲1メートルという数字が決して針小棒大な言葉ではないことを、あきらかに物語っている。この大茶樹は、多数の人々の話題にのぼったとみえて、宇治茶製造法と題する書物にも、

『山城、湯屋谷製茶家の庭前に一大茶樹あり、樹の周囲3尺余、高さ1丈を過ぐ枝葉森欝し、あたかも椿の千年を経たる景況なり、その樹の老古なるを徴すべし』

(山城、湯屋谷製茶家の庭前に、大変大きな茶樹がある。樹の周囲1メートルあまり、高さ3メートルを超える。枝葉は森のように茂り、まるで千年を経た椿のような様子である。その樹が大変古いものであるというのは当然のことである)

との記事がある。これらのことは、翁の家が古くから茶業に従事していることを証明している材料であろう。

2新製茶を

第2

 翁は、元文3年(1738)、ただ優良な一種の煎茶を発明創始したばかりでなく、進んでその新製茶の真価を当時文化の中心地であった江戸に問い、かつ、その販路を開拓しようとした。また、翁は富士登山という前々から持ち続けていた願いを果すために、当時すでに58歳を過ぎた年齢になっていたにもかかわらず、遠くその新製煎茶を携えて江戸に行こうと考えた。このことを伝え聞いた、同村の藤田権左衛門という人は、「私もこれまで、富士登山の願いを抱いてきました。大変よい機会なので、富士山まで同行したい」と頼み入れたところ、翁も快く承諾し、同年の6月3日、脚絆や甲掛けで足を固め、長期間にわたる旅路が無事であるようにと、草鞋の紐とともに強く心を引きしめて、藤田権左衛門とともに東海道に向って出発した。

 途中、かねての希望通り、富士山に登り、頂上に到達して、富士の山神に恭しく新製茶をいくらか供えて、この製茶が世間に広まり、国の利益や人々の幸福の手助けとなることを熱心に祈って山を降り、同行してきた権左衛門に別れを告げ、袂を東西に分かって、翁はただ一人ふらりと立ち去るように新製茶を背に江戸へ歩みを急いだ。

 江戸に着いて、市内の様々な茶商にその新製茶を売り込み、試しに販売してみないかと持ちかけたが、今の東京日本橋の茶商、山本嘉兵衛(嘉道の代)は一目でその新製煎茶の品質がとても良いことを見抜き、必ず世の好評を得るだろうと考え、率先して翁の製茶を販売し、予想通り非常に世間の称賛を得て思いがけない利益を得たのである。このように、翁の江戸における販路開拓の第一歩は見事に成功して、7月12日、庭前の草木も力なくしおれるような暑い季節、40日に近い長期にわたる旅程も無事に終え、翁は村に帰りわが家の縁で旅装を解いた。

 翁のこの江戸行きに関しては、前期の山本嘉兵衛家にのこる古い記録に、次のような記事があり、いかに翁の新製煎茶が世の好評を得たかを窺い知ることができる。

『元文3年(1738)秋、山城国綴喜郡湯屋谷の永谷宗圓という人が、初めて梨製煎茶(いわゆる宇治製)というものを発明し、良いもの少々を持って江戸に来て、試売を四世嘉兵衛(嘉道)に持ち掛けた。その品質がとても良くその味の良いことまるで甘露のようであると、これを販売すると、家の名声は大変に上がり、江戸の町々のいたるところこの茶を好んで飲まないものがないほどになった。これが江戸市民が宇治茶を愛飲するようになった始まりである。このめでたいことを記念して、明治8年に至るまで年々、永谷家に対し小判25両を贈り、その功労に酬いた。・・・』

 従来、発行された茶に関する書物の中の、永谷翁の事績を紹介する記事に、翁と前記の東京の山本嘉兵衛家の関係については、同家の徳潤の代のように皆記載されているが、先年詳しく山本家について調査したところ、徳潤の一代前の嘉道の代であった。徳潤が家業に励み、茶業界に活躍したため、徳潤の代と誤って伝えられることになったのだろうと思う。参考のために、両氏の死亡年月日を記す。

  嘉道…寛政9年2月26日(西暦1797年3月24日)

  徳潤…文政2年8月3日(西暦1819年9月21日)

3翁と売茶翁

第3

 わが国における煎茶趣味普及の第一人者で、後世より煎茶道の開祖と仰がれている黄檗禅の高僧であった柴山元昭師、すなわち売茶翁高遊外は、寛保2年(1742)の夏、湯屋谷村の永谷翁を訪ね、一泊して茶事について大いに語り合ったということである(永谷伊八家の古い記録)。その時、記念のために同家に書き残していった次の一篇の文章がある。

『私は幼い頃より茶を好み、あちらこちらをめぐり歩いた。このたび、菟道の奥、温泉の出る谷あいの里に来て、並々ならぬ風景をくまなく見て回っていると、南に高く帯びる鷲峰山は雲にそびえ、その尾根続きに大威徳の滝、かつては普賢の滝があって、さらに布を晒すような谷川は、三筋に分かれて流れも清く、松風の音に心の耳をすます。茶臼岩、霊鳥が下りて舞うという珠石山、夕日の薫る茶園は今朝日に輝き、大福の茶畑は家々ごとに茶を焙じる、そんな村の春。この里は都の近くにあってなお、俗世間から遠く離れ、物静かであることは、最も清浄な仙人が住むような場所である。大変良い立地で、茶にふさわしい霊地であると感じていたところ、主の永谷宗円翁は、私を一室に通し、自園の新茶を煎じて出した。大変珍しく、言葉にできないほど素晴らしい。初めて飲んでみたが、美しくつやがあり、清い香りのする絶品で、世の中に他に比べられるものがあるであろうか。始めの一杯を飲み終わる前に、あの大福の名葉であることを知る。その上、有難い昔の話をお聞きし、今まで味わわなかったことを嘆いた。数日、珍しい話の席に、わが身を忘れて数杯、数瓶を傾ければ、月は東山に登り、日は西の嶺に沈む。蓬莱はまさにここにあって、今日の楽は茶業の特に優れた人に向けての舞である、このように伝えることが難しいほどの満足の想いを述べて、あるじの心をなぐさめるのみである』

寛保壬戌(寛保2年(1742)孟夏         売茶翁

 この原本は残念ながら、その後散逸してしまって見当たらない。ただ、その時にともに売茶翁が書き残したものかは不明であるが、高遊外の文字のある、

     煎茶日日起松風   醒覚人間仙路通

              要識廬同真妙旨 傾壺先入筒銭筒

という同翁の有名な煎茶の詩の額面が、祖先から古く永谷本家に伝わって、今もなお残っているが、保存があまりよくなかったようで、かろうじて文字を読むことができるというほどに傷んでしまっている。

4田地改良

第4

 永谷伊八家の古い記録に、

『近くの村々はすべて水田であり、田原郷(京都府綴喜郡宇治田原町)、和束郷(京都府相楽郡和束町)、信楽郷(滋賀県甲賀市)、大石郷(滋賀県大津市)とも一帯に水田が多く、日照りの年は米穀がほどよく熟すとはいえ、雨天続きの年は熟さず困窮する村があり、宗円はこれを憂いて、自分の村と近郊の村の田を乾燥気味にさせ、それにより豊かな実りを得られるようになった。近くの村々までもそのような田となって毎年豊作となり、人々は喜び翁を敬って干田大明神と称えた』

同じく武右衛門家の古い記録に

『義弘は天和元年(1681)(月日不詳)に誕生。元々思慮深い人であり、常にその村や隣村また汚田川依田で、長雨の年は多くの所で損傷するのを憐れみ、享保7年(1722)の頃、周到綿密な計画をたてて遂にその田の土を乾かして穏やかな田としたことで、村人喜んで干田神と称えた』

この記事のように、翁は住んでいた村やその付近の湿田の改良事業に従事して、効果を挙げて村人から干田大明神として崇められた。

ある人の説に、翁を干田大明神として祭る小さな祠が同村の大福谷(おおぶくだに)の付近のどこかに建てられていたが、その後朽廃して神体を翁の家に移したと伝え聞いている。ところが、現存する翁の家の付近にある小さな祠ではないかとの話で、その祠を調べてみたが、堂は比較的新しいもので、稲荷神の御符のほかには、干田大明神らしき神体と見られるようなものは何もなかった。しかしそれらしいものと想 像すればできるものは、次の嘉永五年仲冬上浣の茶組会再興の文中にある祠堂の文字である。永谷伊八家の古い記録に、

     茶組会

『月に2度、翁の祠堂(しどう)に参詣して、花を捧げ、茶を供え、闘茶の式を設け、終日茶祖の恩に対するお礼、一方では茶製の研究などをしてご利益を得て長年になる。それなのに、この会式はいつの頃からか絶えてしまった。三家の主人等はこのことをなげいて惜しみ長い年月がたった。このたび、さまざまな人の同意があり、この会式を再興して茶業の手がかりとする』云々。

 前記の文中の月に2度、翁の祠堂に参詣して云々の祠堂の2文字は、仏壇の中の翁の位牌前とも理解しようとすればできるが、何か特別なものが存在していたようにも思われる文字である。したがって、干田大明神として祭ってあった祠の存在説も、一概に根も葉もない言い伝えとしてしりぞけるわけにもいかないのである。

5人柄

第5

 人はある意味において境遇の産物である。従って、土地と人文との間には離すことのできない関係がある。とりわけ昔のように交通の不便な、加えて一般に教育の程度の低い時代においては、その時々で、その関係の密接なものが存在するであろう。そのため、島国人には島国人らしい性質があり、大陸国人には大陸国人らしい性質があり、山国人には山国人らしい特色があり、海国人には海国人らしい特色がある。このように言っても、無論、地理などの外的影響のみをもって人心をどうこうと言うものではないが、しかしその感化影響を全く度外視することはできないと思う。そしてその人心に及ぼす影響には長所もあれば短所もあるが、どちらかといえば何事にも悪い方の影響は受けやすいものである。

 これとは反対に、今、翁の周囲の地理的事情を見てみると、翁は真に文字通り、山また山の谷間の村落に、しかも交通の不便な時代、とりわけ、不便きわまる山中に生をうけたにも関わらず、いろいろな方面から推察するに、山国人に一般的にみられる弊害である、視野の狭さ、度量の小ささ、何事にも保守的で新しいことに手を出さない、自ら進んで適応していこうなどという気性に乏しいなどという欠点がなく、反対に山国人の長所の所有者のようであった。

 山には寂然不動のすばらしい光景があり、樹木の強い勢いがあり、眺望の広大さがあり、さらに加えると、雲やかすみの美しさ、谷川の水の不思議で活動的な美しさがある。そのため、山国人のもつ美点や長所は、性質が剛健であり、思想が気高く独立心に富み、何事にも動きが遅いようであるがしっかりしていて、物事をよく検討し、浅い考えでうわべだけであるような様子がない点などである。

 これに加えて、翁は当時流行していた、秀麗な富士山の美を宗教的に崇拝する、富士講の信者であったらしい。いや、その信者とまでは言えないかもしれないが、少なくとも富士山の美の崇拝家であったらしい。このことは単に翁が江戸へ行く途中、富士山に登ったから言うのではない。翁以外にも、この田原郷の人で登山した者がいることは2、3耳にしているが、これは思うに、富士登山のもとを開いたといわれている、役小角(えんのおづぬ)によって同じく開かれたと伝わる、山城の名山の一つである鷲峰山(じゅぶさん)が、田原郷の東南方に位置して、以前はその名があちらこちらに知れ渡り、京阪地方は言うまでもなく、その他のいろいろな地方から登山する者が非常に多かった関係上、富士講の信者も少しはこのあたりにあったものと見える。今さら言うまでもなく、昔の人の富士登山に対する考えは、富士講の信者であるかどうかにかかわらず、今日のような物見有山の娯楽気分ではない、あくまで、敬虔な一種の宗教的で神秘な感情を抱いて登山したものである。

 翁の登山も全くこの例にもれなかったことは、翁が携えた新製茶を富士の山神に献上し、そしてこの製茶法を多くの人に教えて、人々の幸福の手助けとなることを祈願した、その宗教的な態度によって明白であるだけではない。帰ってからも、その祈願の通りに、家人が止めるのも聞かず、その製法を希望する人々の前に公開して、少しも自分だけのものをすることはなかったのである。このことについては、永谷家の古い記録に、次のような逸話が記載されている。

『翌年、宗円は、近隣に製茶法を教え、近くの村々までも伝授された。家族が言うには、製茶の時には人手を集めるのに差し支えるから、あまり手広く教えなさるなと申したところ、宗七郎が言うに、似たものは自然と集まるものであるから、国中に広まってしまえば、外国から伝え聞いた者たちが来る、人手に少しも不自由はないから心配する必要はない、と言われた』とある。

 その心の大変に広いこと、無我の性格を、この伝えられている簡単なひとつの話に十二分に想像することができる。実に翁が新製茶を携えて遠く江戸にその真価を問いながら販路の拡張の成果をあげた、自ら進んでするという努力といい、そして自分の家族の目の前の些細でわずかな利益に惑わされず、公共の利益、民の幸福を主とした指針といい、どれも翁が敬い頂上まで到達した富士山の清らかで雄大な美しさと比べるべきものがあり、誠に翁は山国人として、山岳が人々の心に及ぼす影響感化の美点長所を発揮した人であるというのも、必ずしも、褒めすぎた言葉でもあるまい。

 さらに他の方面より、翁の人柄およびその家庭の状態を察するに足るものを挙げれば、以前、翁の家屋について詳しくその仏間を見たところ、非常に乱雑で、ほとんど塵埃の置き場所、鼠の巣窟に等しいありさまで、一目で散逸の程度も分かったが、いちいちその煤け果てた古い位牌の法名を調査すると、祖先を始めとして、代々の位牌が過半数以上確かにあり、またその位牌の形状などは、今日流行のものとは違い、非常に立派でいずれもみな相当に年数を経たものである。ところが、翁以後のものは一基も見当たらなかった。これらのことは、もとよりささいなことに過ぎないが、しかし翁の家風、ひいて翁の人柄のいかんを側面より想像するに足るひとつの資料であろうかと思う。

6 翁の年齢と

第6

 翁の年齢は伝わるところにいろいろ相違がある。まず第一、翁の菩提所である長福寺の過去帳によれば、享年82歳とある。永谷本家の古い記録には「齢八旬余(80歳余り)」とある。もっとも、長福寺の過去帳は当時の物でなく比較的新しく、後代書き直したもので、翁の名の宗七郎の「宗」を「総」と誤り、翁の死亡年月である「五月」を「正月」と誤っているような始末で、あまり信用することができないのである。ところで、翁の家の分家である武右衛門家の古い記録には明らかに天和元年(1681)(月日不詳)誕生と記載されている。また一方、家系図上翁の父に当る人は、享保19年(1734)に没していることをみても、翁が天和元年の誕生とすれば、翁はその当時54歳で別に不思議に思える点もないようである。とにかく、明記されている天和元年を出生の年とすれば、その死亡月日は何の異説もなく安永7年5月17日(西暦1778年6月11日)であるため、翁の年齢は実に98歳の高齢となるわけである。明治27年東京の山本家の寄付に関係する茶祖碑にも、何を根拠としたものかは分からないが、享年98歳と彫りつけてある。

 次に、翁の墳墓は、村人の一般の共同墓地とは全く別地である、翁の家屋の付近の山腹にあって、別に独立して存在し、その正面には、生誉即往信士(翁)、即誉貞順信女(妻)の2法名と、両方の側面には、翁の死亡年月日である安永7年5月17日と、妻の同年7月3日の死亡年月日が刻んである。今から見れば、実に小さな墳墓にすぎないが、百数十年の昔、山また山の奥深い山中の村落における墳墓としては、確かに翁の子孫が翁の亡き後に対して、相当に敬慕の情を捧げたことを物語っている。

7 隠れた美談

第7

 前記のように、翁は元文3年(1738)、新製煎茶の販売を、今の東京日本橋の茶商、山本嘉兵衛家に持ち掛け、山本家は翁の新製茶を発売したことで、急に家名を挙げた。その功労に酬いるために、同家が永谷家に対し、明治8年に至るまで、年々、小判25両を贈ったということである。(山本家の古い記録、永谷家の古い記録)

 さらに、山本家の6代目の主人であった、玉露茶の創始者として、武州狭山の重闢茶場碑(かさねてひらくじゃじょうのひ)(埼玉県入間市)の建設者として、茶会その他の方面でも大変活躍して有名な山本徳翁は、天保6年(1835)7月、永谷翁の菩提者である、湯屋谷村の長福寺(ちょうふくじ)の堂宇を再建する際、金50両を寄付している。(そのことを明記してある位牌が同寺に現存している)

 現在(大正11年)の当主も明治27年、前記の長福寺の境内に、永谷翁の一種の記念的な墳墓を建設しているだけでなく、永谷翁の家は不幸にも今日はあまり栄えていないが、依然として親戚のような深いつき合いを継続しているようである。このように、代々の主人が様々な厚意を表したことは、赤裸々に言えば、もちろん商略的な意味もあったであろうが、しかしその主とするところは、永谷宗七郎翁に対する報恩感謝の意より出たものであろう。ここに隠れた美談として紹介するのも、決して言い過ぎた話でもなかろうかと思う。

8 新製煎茶の特色

第8

 翁が創始したという新製煎茶すなわち宇治製煎茶のことは、すでに前編の『宇治製煎茶の出現』の項において詳細に述べたので、ここに再び説明を繰り返すことは避けるが、しかし、翁の新製煎茶の特色について、これまでに多少誤ったことが伝えられているようであるから、一言それを正しておく必要があるかと思う。

 それは外でもない、翁の製茶法の特色として『梨子蒸』の名で、茶を蒸すことが一大特色のように言われているが、これは、すでに明治の初年、あるひとが元禄年間の書である※1本朝食鑑の、

『造芽葉法、先摘新芽、来○(ヒログ)干板上、分作上下二品、上為極、下為煎茶、上下同蒸之

(芽葉の作り方、まず新芽を摘み、干板の上に広げる、上下に分けて2品を作り、上は極であり、下は煎茶であり、上下同様に蒸す)

の文言を引用して反論されているように、いや、この反論をまたずとも、茶葉を蒸すことは中国においても古くから行われたことは唐代の「茶経」を見ても明白なことで、別に問題とするほどのことでもない。もっとも単に蒸すと言っても、厳密に言えば、いろいろな程度や方法があって、一概にはもちろん混同はできないが、漠然とした広い意味において、蒸すとか、焙ずるとか言う条件ならば、ずっと以前より行われたことは、今さらわざわざ新しく様々な書物を引用して論証するまでもないことであるばかりではなく、元々、煎茶だとか抹茶だとかいうものの区別が、今日のように厳然とした境界線がなかったことを胸において考えれば、自然と理解ができるのである。

 

 ただ、翁の新製煎茶の特色をひとことで言うには、当時茶の趣味のある人々の間で相当に注意されていた、中国流の茶葉を蒸さずにすぐに炒り鍋で熱して作る、いわゆる釜炒り茶ならびにその系統に属する茶に宇治製茶が大同小異のものであったから、自然、釜炒り茶の系統の茶に対して区別するには『湯蒸し』の一語が便利であり、また単に釜炒り茶系統の茶のみに対して言えば、その特色を表現しているところがあるから、この『湯蒸し』ということが、ついに翁の新製茶すなわち宇治製煎茶の特色のように言われるようになったものであろう。しかし、広く翁以前の製茶の状態から見れば、蒸すことをもって翁の製茶法の特色とすることは断じてできないのである。

※1本朝食鑑【ほんちょうしょっかん】人見必大によって著された本草書。日本の食物全般について詳しく説明されている。

 それでは、翁の考え出した製造法の一大特色は何であるかといえば、新葉の良芽を選んで採り湯で蒸し揉みながら焙炉で乾燥するという、四つの条件を備えていることに、翁の製茶法すなわち宇治製の宇治製たる特色があるので、けっしてそのひとつひとつを離して言うべきものではなく、そのひとつひとつを離して言えば、翁以前よりことごとく存在する要件であって、何の意味もないことになるのである。前記の四つの条件をすべて備えて初めて、色香味の3点ともに優秀な煎茶を得たわけである。そして、翁の製法の真価が世に認められ、広く一般に普及し伝わると同時に、揉む方法や強弱、形状の整え方などがますます改良され、形状や色は一層美しくなり、今日よく見るような、趣味上から言っても抹茶に対して独立的な地位を保持するに足る、優良な煎茶となり、中国の茶葉を蒸さずにすぐ炒り鍋で加熱して作る、いわゆる釜炒り茶に対しては、日本煎茶としてのひとつの特色を形成した。明治年間に及んでは、遠くアメリカにおいて、中国茶と競争して、我が日本茶の勝利となった。さらに、わが国における重要な貿易品の一つになったのは、まさに優れた翁の製茶法にもとづいた茶であるがゆえである、とまで言われるような、大変な発展を見るに至ったのである。まったく翁のような人は、日本茶業界における、特に大きく強調すべき大恩人であると言っても、けっして褒めすぎではないと思う。

 言うまでもなく、発明創始といっても、物には相当の順序と法則がある。みだりに全く思いもよらないような奇抜な考えが突然降って湧いたりはしない。そのため、たいていの物の発明創始も、ある意味において言えば、一種の社会的産物である。まして、比較的簡単な、製茶のようなものにおいては、なおさらのことであるから、永谷翁以外においても、もっとも、私の知る範囲内では今日その名が伝わっていないが、その当時、永谷翁と同じような考えを抱き、もしくは製造した人も多少いたことであろうと思う。いや、例え他にも存在していたことが確実となったとしても、創始者としての永谷翁には、何の不都合も差支えもない。なぜならば、このようなことは、どの場合においても同じことで、今、1、2の実例を挙げれば、19世紀中、世界の思想界に一大変化を与えた進化論の学説は、今さら言うまでもなく、英国のダーウィンによって発見されたものとされているが、しかし、厳密に言えば、ダーウィン以前にもこのような考えを抱いていた人も多少存在したばかりでなく、ダーウィンと同時代でしかも、ダーウィンと同じ、自然淘汰説を公にしたウォーレスのような事例さえあった。また今日、プロペラの音高く、大空を我が物顔に自由自在に飛行している飛行機も、軽油発動機の発明が、まず自動車を地上に走らせたこと、言い換えれば、軽油発動機の出現こそが、アメリカのライト兄弟に完全な飛行を成功させ、「世界最初の飛行記録」の栄誉ある月桂冠の所有者にさせたようなこととも同様である。別に異論を唱える必要もないことであると思う。ことに永谷翁は、まさに新製煎茶を考案したばかりでなく、進んで遠く販路を江戸に求め、しかもそのことに成功した人である。後世、翁の製茶法が広く世の注意を喚起し、宇治製と呼ばれもてはやされるようになったひとつの理由は、翁が茶産地としてその名を全国にとどろかせていた山城宇治の地に近いところの人であり、ほかの地方から見れば、同じ宇治茶の範囲内にあったことの、いわゆる、地の利の関係が多大な貢献をしたことであろうと思う。

9 趣味と実益から

第9

 翁以前の煎茶は、今日の番茶に属する製茶を始めとし、上等の煎茶として取り扱われていた、挽いて粉末にする前の抹茶用の茶葉をそのまま煎茶に使用するものや、もしくはその軸である『折(おり)』など、どれも全て、その水色は黄色を主とする系統に属する色である。すなわち、番茶系の茶は、今日の番茶と同様に、黄色に黒色を帯びた赤黒い色である。抹茶用の茶葉もその軸である折も、ちょっと考えると美しい緑色を示すように思われるが、折という軸は言うまでもなく、抹茶用の茶も、翁の製茶法すなわち宇治製に比べると『揉みの工程』を欠いているから、容易に煎じだすことは不可能で、どうしても熱湯で少しの時間煮沸しなければ、私たちの味覚を満足させるのに足りるだけの濃度に達しない。そして、適当な濃度に達する頃の水色は、黄色を主とする色に変わってくるのである。このことは、今日まで、黄色系に属する色や、番茶のように黄色に著しく黒色を帯びた赤黒い色などが、一般に茶色とよばれている点などから考えても十二分に察することができるのである。

 これに反して、翁の新製煎茶すなわち宇治製煎茶は、その昔、その特色のひとつから青製茶と名づけられたように、茶そのものの色すなわち色沢からいっても、煎汁すなわち水色からいっても、美しく澄んだ薄緑の色を主とするものである。もっとも厳密に言えば、新茶と古茶とでは水色に変化が生じ、後者は著しく黄色みを帯びてくることは事実であり、また、同じように新茶と言っても、製法が精密かそうでないか、貯蔵が完全か不完全か、産地のどこであるかなどによって、多少の相違は免れないとはいえ、大体において、緑色を主とした色で、また煎茶の趣味性より見ても、美しく澄んだ薄緑の色を貴ぶべきであろうと思う。

 前者の翁以前の黄色を主とする煎茶の水色も、もちろん茶の趣味に通じる点がないではないが、極端に言えば、単に茶の趣味を消極的に表現するのみのようである。これと異なって、緑色を主とする水色は、積極的に茶の趣味のもっとも優れた点を現したものであると言っても、わずかも言い過ぎではないと信じる。

 もともと、緑色は私たちが自然界の草木より多量に常に眼に映しているから、比較的注意をひかないが、多数ある色の内で最も美しい色のひとつで、実に興奮と沈静の中間平均を得た清快な感じを与えて、私たちの精神を静め慰める色である。

 そして、茶はあくまで静的趣味のもので、ただ漠然となにげなく茶を飲めば苦味を感じるばかりで、わずかも甘味を感じない。心を静め、気を丹田に落ち着けて、おもむろに味わうならば、苦みの中に一種の甘味を感じる。さらに詳しく言えば、その香気を、苦甘渋の微妙な、一種の調和を味わうことができる。この静的趣味からくる、苦みの中の甘味、これが実に茶の趣味の生命である。ゆえに、茶は一種の精神安定剤と言われている。精神安定剤といっても決して私たちの精神を沈静の境に置くようなものでないことは、まるで緑色が興奮と沈静の中間平均を得る程度の快感を与えるかのように、茶もまた一種の興奮剤であること、茶特有のカフェインを含有して、私たちに興奮を与えることは、今さらここに論ずるまでもない明白な事実である。

 また、茶の香気から言っても、茶の香気は決して私たちの心をウキウキさせるような、なんとなく暖か味を感じるような匂いではなく、私たちの気をすがすがしく、なんとなく冷やかに引き締めるような匂いで、深く緑色の趣味に通じるものがある。

 その他、緑色は、平和、真実、永遠、健全、理想などの意を表現する色彩であると言われているが、茶もその趣味より述べれば、それらの項目のひとつひとつに深く通じるものがあると思う。だから緑色を主とする茶の水色は、茶の趣味の優れた点を発揮したものであると断言しても、別に差し支えはなかろうと思う。

 さらにまた、水色が緑色を示す煎茶が流行するにつれて、その水色の美しさを楽しむために、煎茶用の茶碗は、もっぱら白色が喜ばれるようになった。この場合、ただ白色の茶碗が水色の美しさを引き立てるばかりでなく、茶碗の白色と茶の緑色とがお互いに映りあって美しさを増し、そこに、新たに世の中のごたごたにわずらわされず静かなさまが湧き出て、ますます深く多方面に茶の趣味が味わわれるようである。

 現在の状態においては、茶は新芽で作れば良い品質となり、古葉で作れば品質が悪くなることは、説明するまでもない明白な事である。翁の新製煎茶は、まず第一に、原料である茶葉は、新芽を使用する。次に『湯で蒸したもの』は、今日の科学者の言葉を借りて言えば、酸化酵素を殺し、つまりタンニンが酸化して黒くなることを避けて、特有の緑色を保持することとなる。『揉み』は茶が含有する可溶物を容易に煎出して得られることとなり、したがって、茶の精分を十二分に使用することができるだけでなく、その他『揉み』は茶葉の細胞中にある各種の物を溶かし合わせて、化学変化を引き起こさせて香気を発生させる効果があるといわれている。おわりに、『焙炉のみの乾燥』は、日向臭、湿気臭などのほかの臭気が加わることなく、いかんなく茶の本来の香味を発生させることができるようである。じつに、翁の選択した4条件は、もっとも、翁がそのひとつひとつを意識していたというのではないが、直接に間接にその良いところを得たものがあって、茶の趣味上から言っても、また実益上から言っても、今日よく見るような優良な煎茶を得ることとなったのである。

10 翁の名

第10

 翁の名は、従来の茶に関する書籍やその他に出ている名はいろいろで、ある書物には三之丞と記され、ある書物には義弘あるいは宗七郎と書かれているという始末である。したがって、どの名をもって真の名とすべきであるかを、ここに論じておく必要があるかと思う。

 三之丞、義弘、宗七郎の3つの名の内で、第1の三之丞という名は比較的1番広く世間に知られている名で、現在、翁の末裔に当る人も、三之丞という名を継いでいるという状況で、以前よりすでに三之丞という名は、完全に家名となっているのである。それならばその三之丞という名は、翁によって初めて起ったものか、あるいはまた、翁以前より存在した名であるのかそうでないのかを、今日のこっている翁の家系図に照らし合わせると、家系図上、翁の父に当る人にも、また、祖父に当る人にも、その他にも三之丞という名はなく、字(あざな)を両者とも與三右衛門(与三右衛門)と明記し、翁の父に当る人は、後に重郎兵衛と改名したことまで記載されているが、どこにも三之丞という名はなく、また、翁自身のところを見ると、第1に行弘と記し、その下に宗七郎、後に、義弘と改める、入道宗円と列記してあって、三之丞という名は全くないのである。ただ、翁以後、家系図上、翁の子に当る人である弘義という人の下に「永谷三之丞三男本家相続」の11文字のただし書きがある。これがそもそも家系図上に三之丞という名が出ている始めである。

 今、単に家系図の表面から推定すると、翁には実子がなく、永谷三之丞の三男に家を相続させたように見られるのであるが、しかし後世の子孫関係者では、弘義の外に次男三男の都合3人の男子があったようになっている。後世そういう風に解するのは人情がそのようにさせるところであろうが、仮に家系図上、翁の次の代である弘義を翁の実子とすれば、三之亟という名は、翁自身の名とならない訳でもないが、また一方から言えば、実子ならば永谷三之丞三男本家相続などというただし書きは必要がないのである。どうもこの辺が不明瞭ではあるが、とにかく、翁が三之丞という名を有していたことを証明するに足る材料はほかにわずかもないようで、三之丞という名は翁以後に起こったもので、翁には関係がないようである。

 家系図上より言えば、翁は始め行弘と名乗り、のち、義弘と改め宗七郎、入道宗円と併記してあるのであるが、事実、翁の名として世間に流布し、社会も翁の名として認めていた名は、決して三之丞でもなく義弘でもなく、完全に宗七郎という名である。

 その理由は第1、翁の菩提所である長福寺の過去帳を調べると、となってはいるが、宗七郎という名を明記している。さらにまた、現在、永谷家にのこっている、寛政12年庚申閏4月28日(西暦1800年6月20日)、七十七翁山上宗把とある、古文書によれば、もともと、この古文書は永谷翁の新製煎茶創始の由来を簡単に書いたもので、その文中に、永谷翁のことを言うのに、『…元祖宗七を始めとし…』と、郎の1字が抜けているが、しかし宗七と明白に書かれている。そして、この古文書の書かれた寛政12年は、永谷翁の死後僅かに22年を去るのみである。このような側面的な事実から考えても、翁の名を宗七郎とするということは、当然のことであろうと思う。これは余談であるが、翁が抜きんでた人であるからといって、別に貴族的なただ系図上の名のみである義弘という、事実上空名に等しい名を用いる必要もなく、ことに浅はかな虚栄熱に浮かされている現代社会の人にとっては、むしろ平民的な宗七郎という名の方が、一種の教化的刺激を与える効果もあってよいのではないかと思う。何はともあれ、翁の名は、宗七郎を真の名とするべきであろうと思う。

11 伝播状況

第11

 前にもしばしば記したように、翁は自ら考案したその優秀な製茶法を、自分の物として秘密にすることはなく、希望するものがあれば進んで公開、教示したのであるから、自然とその付近、ことに湯屋谷村付近にはその製茶法に精しい者がかなりあったであろうが、しかし、その当時の一般社会、とりわけ、上流社会においては、抹茶のみが好まれて、煎茶は少しも顧みられなかった時代であるから、いかに翁の新製煎茶が優秀な煎茶であり、かつまた、いかに翁が江戸で売り出しに成功したからといって、急激に世の嗜好を喚起して、この煎茶に対して多くの需要が起こるわけもなく、したがって翁の新製茶法が速やかに各地に伝播していく気運は見えず、煎茶趣味がだんだんと世に認められて、盛んに流行するようになった、文化文政年代に及んで、ようやく広く、翁の居村付近は言うまでもなく、遠く各地にその製法が伝播されたようである。

 翁の後裔のひとつである永谷伊八家にのこる古い記録より、はなはだ不明瞭で漠然としたものであはるが、とにかく、翁の存命当時、ならびにその後比較的古い時代の、付近におけるその製法の分布の状況と見るべきものをそのまま記載すれば、

□田原郷

 寛保。大道寺2軒(文化5年、同7年、上町丈助、喜三郎へ)

 延享、山田、禅定寺。宝暦、糠塚3人。

□池の尾(延享より宝暦まで9ヶ年に10軒製す)

 二の尾、明和、2軒。笠取、安永。志津川、安永

□信楽郷

 宝暦より安永頃、桶井、野尻。天明、朝宮、留川、納所。

□和束郷

 寛延、原山2人。宝暦、門前2人。明和、石寺1人。

□城南

 天明、多賀2軒。、井手2人。寛政、飯岡1人。寛政、中邑2人。

□大石郷

 安永、小田原、曽束。享和、淀村、龍門。 (以下略)

 さきほども述べた通り、翁の製茶法すなわち宇治製煎茶に属する煎茶が、ますます広く社会一般に流行し普及するに至った年代は、文化文政年間であることは、種々の方面から立証することができるが、今、永谷家の古い記録より、その状況を示すものを抜き出せば、

▼文化2年(1805)、高尾(こうの)(京都府綴喜郡宇治田原町)へ湯屋谷から教授する。

▼文化5年(1808)、上町(かみまち)(京都府綴喜郡宇治田原町)梨嘉右衛門方へ湯屋谷西藤より教示。

▼文化3年(1806)、美の山村(京都府八幡市)で作り始める。八幡常盤町(京都府八幡市)綿屋喜兵衛という人が毎年商用で湯屋谷に来て、上茶を習い、美の山で製茶を始める。

▼文化6年(1809)、広野新田(京都府宇治市)で上茶を始める。藤田弥吉という人が、湯屋谷から徳次郎、六左衛門その他数人引きつれて、きつね谷友平、長束右衛門方へ教示する。

▼文化6年、近年煎茶が広まることで、木津川向(京都府木津川市)、戸津村(京都府八幡市)その他より、永谷武右衛門方へ、茶製造を教える人が来たため、子息総三郎は数人を引きつれて茶製造をする。近くの村の者は珍しく思い日々多数見物に来る。

▼文化6年、和州畑郷(奈良県山辺郡山添村)、獺瀬村(同)に近在茶園あり、そのため、信楽朝宮村(滋賀県甲賀市)の者、桶井(奈良県奈良市)の者2人、この2人は例年永谷伊八方へ茶を作りに来る者である。同年、上記の所へ行って作り方を教える。これが畑郷の作り始めである。

▼文化8年(1811)、上煎茶が広まるとはいえ、城州(山城国。現在の京都府南部)では宇治郡、久世郡の内では池の尾(京都府宇治市)、二の尾(京都府宇治市)、笠取(京都府宇治市)、3,4の村ではできず、相楽、綴喜では田原郷(京都府綴喜郡宇治田原町)、和束郷(京都府相楽郡和束町)を始めとして、江州大石郷(滋賀県大津市)、信楽郷(滋賀県甲賀市)の中ではできず、江戸の1年分の売物には足らず、同年湯屋谷から多数仕入れる。大鳳寺(京都府宇治市)がこれを妬んでいろいろ計略をした』(以上永谷家の古い記録)

 これをみれば、その状況の一部を窺い知ることができるであろう。

12 各県

第12

 滋賀県における名産地として、昔から名高い信楽郷朝宮(滋賀県甲賀市)付近を始めとして、その他に宇治製の伝わった年代については、永谷家の古い記録より先に引用したように、翁が存命だった当時の宝暦、安永頃より天明と記載されているが、地理上から言えば、実に宇治田原郷の地は滋賀県に近接し、ことに信楽の朝宮付近などは、いわば隣村の関係であって、宇治田原郷の茶と朝宮付近の茶とは同一の起源、同一の系統に属すべきものと推定するに足る記録もある。また、永谷翁の田地改良事業もすでに住んでいる村を越えて近江の地(滋賀県)におよんでいる位に密接な関係があるのであるから、翁の製茶法の最も早く他に入り込んだ所は、恐らく滋賀県であろうと思う。

 また、滋賀県の名産地のひとつである愛知郡(えちぐん)の政所茶はその創始の年代は明らかになっていないが、

『慶長年間(1596年~1615年)より東小椋村(滋賀県東近江市)には盛んに茶園を作り『黒茶』と称する湯掻き茶を作り、加賀国(石川県)を中心として北陸地方へ移出したこともあるが、次第に『黒茶』の販路が縮小したことにより、これを緑茶の製法に改めたと』さらに言うには、『本県の製茶法の中で、銘産地として世に知られた政所茶は、最初『黒茶』と称する一種の青揉水浸法を行っていたが、天保7年(1836)炉揉製にうつった』と。(滋賀県の茶業による)

この『緑茶の製法』ならびに『炉揉製』の文字は、宇治製を意味するものであろう。

『大和国吉野郡大淀村大字中増、西増(奈良県吉野郡大淀町)の両地域が盛んである。その起源は今を去ること150年前(大正3年当時)、すでに栽植され、当時の製法は、刈って番茶製とし、飯用に飲まれていたもののようである。その後、籠屋忠次郎という者が山城より来て、この地には茶樹があるが、その製法が粗末であるということを指摘し、忠次郎、俗に籠忠と呼ばれ、もともと籠職人であったが、製茶のことに精通しており、宇治製に利益があることを周知し、その製法を指導して、村の好評を博した』(日本茶業史)

『伊勢国員弁(いなべ)郡(三重県員弁郡)の茶はその起源が明らかになっていないとはいえ、茶説集成に元禄寛永の頃(17世紀前半)、農閑期に番茶を製造し、越前敦賀(福井県)、羽後秋田(秋田県)その他各地に、移出していたことがあり、文政の初年(1818)、日内村(三重県いなべ市)に、花屋太与次という者があり、三重郡菰野村(三重県三重郡菰野町)の紅屋善右衛門と共に、宇治製を始め、これを江戸やその他の地に販売して、非常に好評を博し、ついに北勢全体を宇治製に改良するに至った』

『三重郡菰野村は文政年間(1818年~1831年)、山城国宇治(京都府宇治市)の山本勘右衛門という者が同村に来て、家業の釜炒り茶の事業を始めた。とても良い品を製造して、領主である土方氏が求めるようになり、非常に評判となった。天保2年4月(西暦1831年5月)、山城宇治より、職人を招き寄せ、旧式の製造法である釜炒り茶を炉製に改めて江戸地方に売り出すと、非常に広く世間に広まり、世間に菰野茶の名を語り伝えられることとなった』(日本茶業史)

『美濃(岐阜県美濃地方)は、昔から、山野に自生する茶を摘採して、これを製茶していたが、文政の頃、池田郡東野村(岐阜県揖斐郡池田町)に、今西半左衛門という者が出て、茶種を宇治から移植し、のちにまた宇治から茶師を招致して、製法を伝授し、ますますその製造に従事したので、ここから池田郡は茶の産地として称せられるようになった。また、同国武儀郡(岐阜県関市他)も、古来茶の産地として知られ、中でも、津保谷(岐阜県関市)の4つの村、神淵谷(岐阜県加茂郡)の6つの村はすでに天正文禄の頃、奥羽越後地方と遠く通商を開くに至った』(日本農業小史)

宇治製なにそれと明記してはいないが、『宇治から茶師を招致して』は、時代から見て宇治製煎茶であることは、別に説明の必要もないであろう。

『坂本藤吉は駿河国志太郡伊久美(静岡県島田市)の人で、江戸で遊び宇治のなんとかという茶師に会いその言葉を聞きすぐに、郷里の茶業で世間の評判を一新しようと心に誓い、宇治に行き実地を見て、男女茶師数十人を雇って製茶の仕事に当らせた。そして、ついに非常に良い質の品を製造し、江戸で販売する。人々の嗜好に合い、坂本茶園の名は非常に上がり、明治20年9月、政府はその功績を追って賞し、孫の文平を呼んで金を与えた。そののち、静岡県の茶業者は相談して、その碑を静岡市の公園に建てた』(寛政、享和年代(1789年~1804年)(民政史稿)

『駿河国駿東郡沼津町(静岡県沼津市)の坂随平という人は、駿東地方は、荒れ果てた土地が多いため開墾して茶樹を栽培すれば利益が多いだろうと、安政2年(1855)愛鷹山(あしたかやま)(静岡県東部)の麓の土地20余町歩(約0.2平方キロメートル)を開墾し、茶の栽培を試みようとした。ところが、当時の藩制は、穀類、野菜のほかは、田園に植えることを許していなかったため、随平はどうすることもできず、その後、むなしく帰らぬ人となった。養嗣子の三郎は意を決して遺志を継ぎ、数々の困難を乗り越えて、初めて茶樹を栽培する。発育良好で、隣人はこれにならって、ますます製茶業は盛んになり、慶応2年(1866)以来、職人10人余りを山城近江から招いて、自家製造のかたわら、主として宇治製を学んだ。明治29年2月政府は緑綬褒章を授与した』(民政史稿)

 天保3年(1832)にできた、狭山茶場の碑という、入間郡宮寺村(埼玉県入間市)にある、重闢茶場碑(かさねてひらくちゃじょうのひ)の文中にある

『・・・・・其他各場培養失法製亦不精惟宇治檀其名為諸州之冠而已逮文政中郷之着姓村野氏盛政吉川氏温恭与江戸山本氏徳潤○議重闢茶場干狭山之麓欲以興数百年之発隣曲為之随種者数十戸用力培殖遂次蕃滋歳収若干斤佳称日着製益精絶而狭山之産復再彰・・・・・』

という碑文中に、その製法が細かいところまではよく知られていないことが記してあり、そして、村野、吉川の諸氏が江戸の山本徳潤に意見を聞いて茶業の復興に力を尽くしたところから推察すると、そもそも、この山本徳潤は今の東京日本橋の茶商山本嘉兵衛家の主人で、その先代の嘉道の代に、永谷翁の新製煎茶すなわち宇治製煎茶を販売して、急に家名を挙げたことで、徳潤も非常に尽力し、とりわけ文化6年(1809)山城綴喜郡の村々に、同8年同郡ならびに宇治、久世の3郡にわたり茶園を購入して茶樹を栽培し、宇治製の発達に全力をそそいだ人であるから、狭山にも宇治製を入れて改良を促したものであろう。したがって、狭山に宇治製が入ったのは、前記のように文政年間のことであろう。

『野村佐平治は、下総国猿島(さしま)郡山崎(茨城県坂東市)の農業指導者である。萬治年間(1658年~1661年)に、その祖先が山崎より7軒来て茶樹を栽培する。その時、隣近所7戸であったため、七軒の呼び名がある。関宿(千葉県野田市)の牧野氏(その城主)は、佐平治を尋ね、その領内に茶の栽培を奨めた。猿島の製茶業は、実にこの時に始まったのである。佐平治はかつて江戸に出て宇治茶を買い求め、たまたま話が製茶のことに及んだ。店主は熱心に宇治茶の製法が優秀であることを説き、佐平治は非常に思い当たることがあった。当時の猿島の茶は、粗末な製法で、わずかに、甲州(山梨県)、武州(埼玉県)、上州(群馬県)、信州(長野県)へ行商して、土地の人が飲む分を求めるに過ぎなかった。しばらくの間、江戸の茶商古木屋だれそれという人が猿島に来たことがあり、佐平治はその試製の茶を煎じて出した。そのなんとかという人は、驚喜して『猿島の地も宇治茶を生産するのか』と言った。すぐに、江戸の花と名づけ、年々これを仕入れて売り、店頭に市ができ、猿島の茶が急に貴い物となった』(民政史稿明治忠孝節義傳)

『その時、中山元成という人がまた、熱心に製茶改良の必要を唱え、猿島の南を説いて回った。明治維新の後は、茶業はますます隆盛し、この地方の一大産物となった』(民政史稿)

『下総(しもうさ)国東金(とうがね)茶(千葉県東金市)は、大野伝兵衛氏が始めた。文久時代( 1861年~1864年)中に、私産をなげうち、山林を開墾し、20町歩(約0.2平方キロメートル)余りで茶樹を栽培、近隣でもその利益を聞いて茶業に従事し、そのおかげで、毎年多くの生産高を出すに至った。明治初年、政府はその功労を追って賞した』(民政史稿千葉県地方事蹟)

想うに、この東金茶は、宇治製どうこうといっていないが、その時代といい、地理上の関係といい、その製法は間違いなく宇治製に属す製茶であろう。

『本県における茶業の起源は詳細になっていないが、その奨励に努めたのは、実に寛永年間(1624年~1645年)であり・・・萬治年間(1658年~1661年)・・・江沼郡下(石川県加賀市)130ヶ町村に茶種を広めて、奨励に努められた。また、能美郡(石川県能美市他)においても、同時に奨励をした。明和、安永(1764年~1781年)の頃に至り、やや生産高が増加するのに従い、売り扱いの問屋を置き、大聖寺町(石川県加賀市)、小松町(石川県小松市)の商人十数名を若狭(福井県)、越前(福井県)、加賀(石川県)、能登(石川県)、越中(富山県)、越後(新潟県)、陸奥(青森県)の海浜に向かわせ、これを販売させた。

 文政、天保(1818年~1845年)の時に至り、生産高はますます増加したものの、その製法は依然として『蔭干製』であったが、弘化元年(1844)に茶師の久世清吉という者が初めて焙炉製を伝えた。

 嘉永4年(1851)、近江(滋賀県)の奥西磯五郎という人が、陶器の販売に来たが、その人はまた非常に高い製茶の技術も持っているということで、大聖寺藩士東方宇左衛門は、この人を留めおいて、自ら従事してその製法を伝えようとした。これがまさに、本県における宇治風製造法の始めとする。その頃、小松町長保屋利右衛門は、近江から茶師2名を雇いいれ、同じく宇治製を伝え受けた。このことで、2つの郡の生産者は、だんだん宇治風に改まり、品質、価格とも上がってきた。慶応年間(1865年~1868年)からはこれを海外に輸出する者が出てくるまでに至った』(京都茶業界第弐巻壱号石川県の茶業)

『本県における茶樹は、古来垣根および畑の境界の目印として移植され、おのおの自家用にするために番茶を製造していた。嘉永5年(1852)坂井郡細呂木村十楽(福井県あわら市)の糠見萬右衛門が煎茶が移入してくるのを防ぐため、つまり番茶は自国製であるが、煎茶は山城から取り寄せて自国の需要を充たすのを遺憾として、丹後(たんご)国熊野郡布袋(京都府京丹後市)の森川清次郎を招き製造を試みたのを、煎茶製造のはじまりとする。そして、その出来が良くなったので、萬右衛門は山林6反歩(約6千平方メートル)を開墾し、山城国(京都府南部)より種子5石余り(約900リットル)を買入れ、初めて茶園を設けた。翌6年、同区において、この製造を教わり、次々に製造する者が現れるに至った。当時また、三国町(福井県坂井市)の竹山仁平も同じく煎茶の製造や製法を伝えることに、最も心をくだいた功労者である』(茶業銘鑑)

この文中の『つまり番茶は自国製であるが、煎茶は山城から取り寄せて』云々の、煎茶とは、宇治製煎茶を意味するのであろう。

『亀屋四郎三郎は因幡(いなば)国智頭(ちず)郡用ヶ瀬村(鳥取県鳥取市)の人である。家は代々農業を家業とし、智頭郡の土地は山野が多く、自然の茶樹に富んでいるが、郡民は製茶の方法が成熟しておらず、粗末な茶を製造するのみであった。四郎三郎は嘉永5年11月(西暦1852年12月)山城の伏見(京都府京都市)から製茶の方法を教える人を招く計画を立て、その翌年村人の佐々木吉郎という人を伏見に派遣してその実情を調べさせ、そして6名の講師を雇いいれて新たに製茶室を造り、受講生16名を勧誘してその方法を学ばせた。費用は500両に上ったが、すべて自腹でまかなったとのことである。しかし、その製法は優れたものにならず、販路もまた思うようにならず、5、6年苦心して、安政2年(1855)に大阪の浦なんとかという人に就いて煎茶の鑑別、製造法の概略を学び、ようやくその方法を究めるに至り、同4年になって初めて、製茶の利益があがるようになった。藩主池田氏は、その功績を賞し、特別に苗字を与え、また煎茶の御用商人を命じた。明治の初年に神戸に赴いて、海外に輸出することを計画し、50名あまりの茶師を使って盛んに製造し、非常に好評を得た。明治22年には、9130貫目(約34トン)という多大な量に達した。用ヶ瀬、智頭付近の土地は、因伯(鳥取県)第一の茶の生産地となった』(民政史稿範例大鑑)

『土佐国安芸郡(高知県安芸郡)の茶は、開発されて100年余り(明治5年より)。茶の製造は、近世より以前は秋葉をとり、いわゆる番茶にし、自家用にした。出し茶(すなわち宇治製煎茶を意味する)の製造を始めた人は、その郡の僧津村の内、黒島村浄貞寺(高知県安芸市)の捷遅庵という僧で、隠居して末寺の八王山広法寺に住んでいたが、茶を好み、宇治から遍路に来た人を留め置いて、製法を習得して自ら製造して自分で飲む分とした。その頃、五藤太夫の家臣小牧修平は、井の口村(高知県安芸市)に住む岩崎彌助と共に、その製法を習得して製造するが、前記の僧の製造には及ばず、僧もまた、その製法を秘密にして語らず、そのため、宇治の人々に会って、その製法の詳細を明らかにしたと。

 上記に述べる通り、昔は茶の製法を知らず、みな番茶だけをとっていた。出し製茶が盛んになるのは、近来のことである』(製茶説)

『本県における従来の製茶法は、中国式の釜炒り法と同一であって、京都、三重、静岡等の主産地において、焙炉製茶の新しい時代のはじまりを聞くと、だんだんと販路が減少し、本県の製茶はついに単独の輸出は行われず、わずかに焙炉製茶の混合用として一部の需用を充たすに過ぎない悲運に落ちぶれた。この時に、いい加減な品質の物をむやみに製造するという弊害を多く引き起こし、ますますその評判を失墜させることになったことで、明治7年、本県にて、宇治製法の習得をした。当時、数名の生徒を出したが、その事業はとても振るわず、山門郡東山村(福岡県みやま市)清水寺の住職田北隆研氏は、ひとりで茶園6町歩(6万平方メートル)あまりを開拓し、明治7年より焙炉製茶を熱心に経営したため、同地方に焙炉製の技術者を多く輩出した』(福岡県製茶改良法)

『肥前国藤津郡(佐賀県藤津郡)の嬉野茶は、元来南京釜炒茶(今日の釜炒り製ではない)であり、これを唐製と呼び、我が国の輸出茶の元祖であるとする。明治の初年、その額は1万斤(約6トン)に上ったが、その頃はちょうど他府県の製茶は、非常に改良が加えられ、外国人の嗜好はこれに移ったため、嬉野は次第に価格が低落し、その産額を減らしていった。

 明治の初年、井手与四郎は県当局の奨励に基づいて、宇治製の伝習所を設けて宇治製を奨励したが、不幸にもすたれてしまった。その後、高柳嘉一という者がしきりに製茶改良に努め、遂に唐製と宇治製との折衷製を発明し、その子弟を南京、漢江、重慶の各地に派遣し、もっぱら在来製の改良に心を砕いたことで、嬉野の評判を博すこととなった』(日本茶業史)

『鹿児島県における宇治製製茶法は九州においては、最も早く伝わったところであり、今、その起源をたどると、文政7年(1824)に国主の島津溪山(斉宣)公が江戸へ行き田安の屋敷で遊ばれた時、邸主が煎茶でもてなしをした。公は非常にその味と香りを感心して褒め、その産地を尋ねた。そこで公は、我が国はまだ煎茶の製法を知る者はいない、適当な者を撰んで習わせようと思った。公はこれを宇治の川村宗順に告げ、川村は承諾した。そういうわけで、同年8月、本国へ任撰を命じたところ、時の家老川上だれそれ、二階堂だれそれなどで相談して、出水郡阿久根村(鹿児島県阿久根市)の住人である、小木原三樂という者を呼び寄せてこの旨を伝える。彼の才能がこの役目に適していることがその理由である。三樂はこの時53歳。命令に応じて文政8年(1825)正月に宇治に赴き、川村宗順に従って蒔付蒔き付け培養から蒸し焙炉および貯蔵の方法をもらすところなく、すべて事実についてその機密を伝授された。同年8月帰国の上、場所を阿久根村田代に(この地は山間深く、とても茶樹に適しどうにか宇治に似ているといえるため)定めて、広大な茶園を開き、盛んに茶業を興して、製造した茶を国主溪山公に献上した。公は三樂が一新に努力したことを心から感心して褒め、数本の絹織物と金20両を与えた。郷内からひいては近隣地域にいたるまで普及させた。後に跡継ぎの庄兵を宇治に上らせ、巧みな製法の奥深さを伝来して、それ以来廃藩の時に至るまで毎年八重霧という名で10貫匁(約38キロ)ずつを国主に献上したという。これが本県における宇治式製茶法の起源である』(京都茶業界第弐巻壱号)

『徳川時代になって、茶道の空前の発展とともに、茶業も盛んとなり、加えて茶壺の制を設けるに至って、大名たちも茶に趣味を持ち、九州の各藩の武士もまた、茶に興味を持つにおよんだ。例えば、京都の茶に比べてどうも自国の産茶は違うというようなことで、九州も改良の気運に向ったのである。私の見分によると、一番古いのは鹿児島で、薩摩郡の東郷(鹿児島県薩摩川内市)では、享保年間(1716年~1736年)に京都式に改良され、次いで宮崎の都城(みやこのじょう)(宮崎県都城市)では、宝暦年間(1751年~1764年)にやはり京都の製法を入れて茶業を改良した。熊本県においては、天保年間(1831年~1845年)に京都から製造者を雇いいれて改良した。平戸もそうである』(茶業界第十四巻三月号)

 この記事を見ると、前文の『鹿児島県』の記事と相違して、享保宝暦年間に京都すなわち宇治式に改良されたようであるが、この享保宝暦年間の改良は、煎茶製造ではなく抹茶製造を意味するものであろう。無論、抹茶製造の影響が自然と煎茶におよぶのは当然のことで、それらしい形跡もあるようであるが、とにかく、抹茶製造と見る方が筋が通るであろう。しかし、この記事の熊本県の天保年間京都式に改良云々は、時代より推測して必ず宇治製煎茶であろうと思う。

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日本煎茶創始者 永谷翁(終)

Engligh

Founder of Japanese Sencha

THE REVERED OLD MR. NAGATANI

Written by Yoshikawa Kaido

The following text is a translation of "Founder of Japanese Sencha THE REVERED OLD MR. NAGATANI," which is written about Nagatani Soen by Yoshikawa Kaido in 1922. Please note that the contents described are based on the research at the time of writing and may differ from the current research.

BIRTH PLACE

The Village Located Mountain After Mountain

 The water of Lake Biwa, the largest lake in Japan in Shiga Prefecture, flows and becomes a river. The river escapes from the foot of Ishiyama-dera temple.  The temple is the place where Murasaki Shikibu, a famas female writer, wrote the oldest feature-length novel in Japan around 1000 AD. It is also a sacred place for Kannon and is famous for its beautiful moon. The flow of the river hits strange stones and steep cliffs in a dangerous spots, and the waves hit it violently fly through mountains and mountains as if white snow shatters, and change its direction at the place where it is impossible any more. It is about to flow into the open land. A green mountain called Asahiyama, which looks like a Tosa-e painting, is on the right. The colorful phoenix hall of Byodo-in temple, which is praised as a masterpiece of Fujiwara period architecture, is on the left. The abundant water is going all the way across the river. It is Ujigawa river. The houses on both banks are the town of Uji.

  The Yamashiro area has been known throughout the country for TEA since ancient times. The Uji River, which uses the water of Lake Biwa as its source, forms the center of the Yamashiro tea producing area that echoes throughout the country. There is a road leading to Shiga Prefecture via town of Ujitahara on the right bank toward the upper reaches of the river. It is a road that has been extend for a long time and has been extremely important in terms of transportation and strategy since the time when the capital was in Nara. This is mentioned by historians at every opportunity. This road goes back over 8 km (~5 mi) from Town of Uji and reaches Gonokuchi Village, which is the entrance to Ujitawara Town, which is famous for producing Sencha. In addition, about 4 km (~2.5 mi) southeast of it, there are villages dotted with hundreds of houses in the valleys of the mountains. It belongs to Ujitawara Village (at that time), Tsuzuki District, Kyoto Prefecture and is called Yuyadani. This Yuyadani IS the place where Nagatani Soshichiro, a major benefactor of the Japanese tea industry, was born 242 years before leaving now 1922.

 Needless to say, a person's value lies in his or her personality and deeds. What the family is like does not add to its value. However, on the other side, it is a basis to know who the person is. Looking at what his family is like now, it seems that there is decoration or exaggeration in posterity. But, only the necessary parts are described from the family tree that remains in his descendant branch family.

He is a samurai of Yamashiro Province. In August 1592, he settles on the site of Yutani-bo, a lodging for priests, Shontan, Yuyatani Village. He resigns from his duties, stays away from the public, shutts himself in at home. He worships Yuyama-sha shrine here and deifies it on September 25th. He passes away on June 7, 1596. Iehiro's child, Michihiro, he services Toyotomi Hideyoshi (the top politician at the time) and becomes a close retainer. He receives 700 koku (It means that he has been given a territory. Koku is a unit that indicates the productivity of land). His position is to guard Osaka Castle.

He passes away October 6, 1624

He passes away April 21, 1649

He passes away March 4, 1671

Yozaemon. In 1688, He is allowd to attend Shinto ritual and to wear a pair of swords. He passes away on December 11, 1698. His wife is from the Ueda clan. She passes away on May 26, 1703.

Yozaemon, later renamed to Jurobe. He is allowed to attend Shinto rituals and to wear a pair of swords. He passes away on September 6, 1734. His waife passes away on September 13, 1747.

Soshitirou. He is allowed to attend Shinto rituals, to profess surname and to wear a pair of swords. Later renamee to Yoshihiro. He becomes Buddhist priest and calles himself Soen. Founder of Japanese Green Tea, Sencha. His wife is  from the Ujita clan. July 26, 1778.

(In addition to this, the improvement project of the wet field and the origin of the new method of  Sencha are described, but they are omitted because they are not necessary here.)

Yoshihiro The third son of Nagatani Sannojo inherits the head family. --Today's Sannojo is the grandson of the sixth generation.

Yoshikane--Nagatani Chouzaemon

femail

Mitsuhiro--Ngatani Buemon

family tree

His lineage was, as the family tree shows, a well-known family in the village. The house where he lived was still in existence(The house had not been repaired for a long time and was so devastated that it was demolished in early spring 1922. At that time, it was discovered that a minor repair was made in 1810.) Examining it as an old house in a village in the deep mountains, it is easy to imagine that this family was famous because of its location and size. Since his ancestor Iehiro moved to Yuyadani village, he opened a tea field, engaged in the tea industry, and worked on the family business for generations, extending to the Meiji era(1868-1912).

There was a very large tea tree in the garden of his house since ancient times. It was 1m(~40in) around the trunk, 4m(~160in) high, and about 9m(~350) around the treetops. Therefore, it was called a TREE GARDEN. Its reputation was widely spread, many people for the express purpose of going there. The tree finally died in the winter of 1897. The thick part at the base is that it falls into a certain person and becomes a hanging forehead of a single board, which is an object of envy of dilettantes. The trunk with branches still exists in his descendants, the Nagatani family. Although it is the tip of the tree, it is a large tree that is rarely seen. It clearly shows that the fact that it was 1m around the trunk toward the base is by no means a large number. This large tea plant seems to have been talked about by many people. The book entitled Uji Seich-ho (Uji Tea Maiking Method) also has the following description.

"There is a very large tea tree in the garden of the tea maiking house in Yuyadani, Yamashiro. Around the tree is about 1m, and the height exceeds 3m. The branches are thick like a forest. It looks like a camellia that has passed a thousand years. It's no wonder that the tree is very old."

These things prove that he has been engaged in the tea industry for a long time.

to the capital

2

In 1738, not only he invent the excellent Sencha, but he was willing to ask the true value of the new TEA to Edo, which was the center of culture at that time, and tried to open up its sales channels. Moreover, in order to fulfill his long-held wish of climbing Mt. Fuji, he decided to go to Edo with the new Sencha, even though he was over 58 years old at that time. A person named Fujita Gonzaemon in the same village learn by hearsay this. So he asked Soen, "I have had a wish to climb Mt. Fuji. It's a very good opportunity, so I want to accompany you", and he agreed. On June 3rd of the same year, he stiffened his legs with protectors. He tightened strings of his shoes to brace himself strongly, so that the long-term journey would be safe. Then, he set out for Tokaido with Fujita Gonzaemon.

On the way, they climbed Mt. Fuji as they had hoped. They reached the summit and Soen offered some new Sencha to the god of Mt. Fuji. He prayed devoutly that this tea would spread to the world and help the country's interests and people's well-being. He went down the mountain and said goodbye to Gonzaemon who accompanied him. One of them went east and the other come west. Soen hurried to Edo alone casually.

Soen arrived in Edo, he tried to sell the new tea and propsed to sell his tea to various tea dealers in the city. There was a person named Yamamoto Kahe in Nihonbashi, Tokyo (Yoshimichi's generation). At a glance, he found that the quality of the new Sencha was very good. He took the initiative to sell the Sencha, believing that it would definitely be well received of the public. As expected, it got a lot of public praise and he got an unexpected profit. In this way, his first step in developing a sales channel in Edo was a great success. On July 12, in a hot season when the vegetation in the garden was weakened, he returned to the village and take off his traveling clothe at his house after successfully completing a long journey of nearly 40 days.

Regarding his trip to Edo, the old document of the Yamamoto Kahe family mentioned above has the following record. We can see how his new Sencha has gained popularity in society at that time from this.

"In the fall of 1738, a person named Nagatani Soen in Yuyadani, Tsuzuki-gun, Yamashiro invented a new method for making Sencha (so-called Uji-method). He came to Edo with a good one and asked Kahe IV (Yoshimichi) to sell it for a trial. Its very good quality and good taste is like a nector. The fame of the family went up a lot when it was sold. Everywhere in the town of Edo, there is no one who doesn't like to drink THIS tea. This is the beginning, the citizens of Edo  to love drinking Uji-cha (the Japanese green tea Sencha, made in Uji). In commemoration of this pleasure, they presented 25 kobans (Japanese old oval gold coins) to the Nagatani family every year until 1875, and paid for their achievements...."

 In the previously published books on tea, in the article that introduces the achievements of Soen the relationship between him and the Yamamoto Kahe family in Tokyo is described like the family's Tokujun's generation. However, when I investigated the Yamamoto family in detail last year, it was Yoshimichi's generation, one generation before Tokujun. Because, Tokujun worked hard in the family business and played an active part in the tea industry, I think it was mistakenly told that it was Tokujun's generation. For reference, the date of death of both is shown.

Yoshimichi --- March 24, 1797

Tokujun --- September 21, 1819

Baiso

3

 Baisao, Ko Yugai is a leading person in the spread of 'sencha shumi'. 'Sencha shumi' is to talk philosophically while drinking Sencha regardless of the form. He is a high-ranking priest of Obaku Zen who is said to be the founder of Sencha-do in posterity. His real name was Shibayama Gensho. It is said that Baisao visited Soen in Yuyadani village  in the summer of 1742 and stayed overnight to talk a lot about the tea.(Old document of the Nagatani Ihachi family) There is a sentence that he left behind in the same family as a memorial, at that time.

 "I have loved tea since I was a child and have been touring around. This time, I came to the back of Todo,  to the valley where the hot springs come out and went around the extraordinary scenery. The Jubusen, which lay high in the south, towered over the clouds. Following the ridge, there was Daiitoku Waterfall, once Fugen Waterfall. The mountain stream like washing out the cloth was divided into three lines and the flow was clean. I listened to the wind blowing through the pine trees. Chausuiwa, Shusekizan where the sacred birds descends and dances. The tea garden scented at dusk, now shines in the morning sun. Tea field at Obuku, they roasted tea for each house. Spring in such a village. This village is quiet, far from the world, even though it is near the city of Kyoto. It's the cleanest place as if hermit  living there. I felt that it was a very good location and a sacred place suitable for tea. Mr. Nagatani Soen passed me through his room and brewed new tea from his own garden. The tea is very rare and indescribably wonderful. I drank it for the first time, and it was a beautiful, glossy and exquisite product with a clean scent. Was there anything in the world that can be compared to others? Before I finished drinking the first cup, I found out that it was the famous leaf of Obuku. What's more, I heard a thankful old story and lamented what I hadn't tasted before. For a few days, I forgot about myself and tilted a few cups and a few bottles to a rare story. The moon rises to east mountain and the sun sets to the west ridge. Utopia is right here, and today's music is a dance for the best people in the tea industry. In this way, I only soothed his heart by expressing a feeling of satisfaction that was difficult to convey."

Early summer 1742, Baisao

  Unfortunately, this original has been dissipated since then and cannot be found. However, it is unclear whether Baisao left behind at that time, but the tablet with his famous sencha poem, signed by Kou Yuigai, was handed down from his ancestors to the Nagatani head family and still remains. But, it seems that it was not well preserved, and it is so damaged that it is barely readable.

4

 In the old document of the Nagatani Ihachi family, it is written as follows;

"The fields in nearby villages are all rice paddies. Tawara village(Ujitawara town, Kyoto), Wazuka village(Wazuka town, Kyoto), Shigaraki village(Koka city, Shiga), Oishi village(Otsu city, Shiga) also has many paddy fields. Their rice  ripened moderately in the dry year, but some villages had less harvest  in the rainy years, they got poor. Soen was worried about this and made the rice fields a little dry in his and the neighboring villages, which made it possible to have abundant yield. The nearby villages became such fields and had a good harvest every year, people were delighted, and they praised him as Hoshita-daimyojin."

---Hoshita-daimyojin干田大明神 means; hoshi干 is to dry, ta田 is rice fields, and daimyojin大明神 is grate gracious deity.---

 Similarly, in the old document of the Buemon family, it is written as follows;

"Yoshihiro was born in 1681 (date unknown). He was originally a thoughtful person. He was always merciful of being damaged in many places on  the long rainy years in many places in his and neighboring villages. Around 1722, he made a detailed plan and finally dried the soil of the paddies into a calm field. The villagers praised it as Hoshita-shin, or god of dry field".

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